震災から15年[Diary]
(2010-01-17) by ゆーすけ


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本日は阪神・淡路大震災の日、15年前の今日午前5時46分に大震災が発生しました。

 

 

当時ワタクシは中学1年生でした。神戸市灘区にある学校に通っていましたが、家からは少し遠かったので、毎朝6時に起きて登校しておりました。

 

当日

当日の朝、轟音と激しいゆれで目が覚めました。当時ワタクシが住んでいた家は農家の古い家で、木造土壁でした。なので、普段から台風などの強風時には若干ゆれることもあったのですが(ワタクシの寝ていたのは二階だったので、よりゆれはひどいものでした。)、この日のゆれ方は尋常ではありませんでした。。。

とりあえず、布団にくるまって揺れが収まるのを待って起き上がると、親父が呼んでいました。外に非難しようと暗闇を歩き始めたらすぐに足に何かがあたりました。洋服ダンスです。二階にあった箪笥という箪笥がすべて倒れている感じで、それをよけつつ一階に下りました。

一階では食器棚から飛び出て割れてしまった食器の破片を避けつつ外へ。真冬だったので、車のエンジンをかけ、車内で暖を取りながら、ラジオを聴いていました。

いつものようにMBSにあわせると、『おはよう川村龍一です』が始まりました。メインMCの川村さんが自宅からスタジオに向かうタクシーの中から携帯電話で中継(?)しながら話すという異例の放送でした。

その川村さんの言葉の中で家族全員絶句したのが、『えーっと、これは・・・。阪神高速です。阪神高速は落ちました!』というものです。"阪神高速が落ちる"の意味はすぐには想像できませんでしたが、とにかくひどいことが起こっているのだということは伝わってきました。

その後も相変わらず停電は続いていましたが、幸い(?)ワタクシの家はプロパンガスで、ガス漏れもなく使えそうだったので、簡単な朝食を摂りました。

あたりも明るくなり、ワタクシ自身は登校はあきらめていましたが、父親は会社に出勤することにしたようでした。電車も当然動いていないので、母親が会社まで車で送ることになり、二人で出て行きました。

そうこうしているうちに我が家の停電が直りました。(確か午前10時前後だったと思います。)映像で見る神戸の街は無残な姿に変わっていました。ヘリからの映像では何本もの黒煙があがり、駅は倒壊し、阪神高速が倒れていました。(この時にやっと"阪神高速が落ちている"姿を理解できました。)

祖父母とともに昼食を摂っていたときだと思います。電話が鳴りました。ワタクシの祖伯母が亡くなった知らせでした。祖伯母が住んでいたところは神戸新開地近くの大開というところでした。あとから聞いた話だと、祖伯母の家近辺は軒並みめちゃくちゃに潰れ、どこが家だったかさえよくわからない状況だったようです。

祖伯母と聞くと非常に遠い親戚のように聞こえるかもしれませんが、ワタクシにとって祖伯母は特別な存在でした。小さい頃から家に遊びに行ったり、小学校高学年の頃には一人で遊びに行ったりもしてました。加えて、定期的に文通をしたりもしてました(祖伯母の字は達筆すぎて祖母に読んでもらわないと読めないこともありましたが・・・笑)。毎年、バレンタインデーにはチョコレートを送ってくれ、ワタクシが中学受験に合格したときはとてもよろこんでくれていました。(中学受験の塾の帰りに家に遊びに行ったりしていたのです。)

そんな祖伯母が亡くなったと聞いた時、衝撃を受けましたが、まだ何が起きているのかよく理解できない感じでした。心が呆然とするというか、思考が停止しているというか・・・。

その知らせのすぐあと、再び電話がなりました。今度は母親からの電話でした。当時、携帯電話もなかったので、親との連絡は向こうが電話を掛けてきてくれないと不可能でした。母親からの連絡の内容は、祖伯母の家付近の被害がひどいこと、父親は倒壊しかけている会社に一人で入っていってしまったこと、午前中はマシだった交通量が増えてきたために、いつ帰れるかわからないということでした。

それからも、度々発生する余震に怯えながら一日を過ごしました。

 

震災後

ワタクシの中学が授業を再開したのは、2月の終盤になってからでした。

中学が休みの間、ワタクシの地元では買うことができた物資(食料やブルーシートなど)をリュックなどに詰め込んで、親戚の家に運んだりしていたのを覚えています。

中学が始まってからも、三宮を経由して通学していたワタクシにとって、まともな通学路では通えません。電車の振替輸送を行ってるバスも満員で乗れなかったので、バスで30分程度かかる道を歩いて登校したりもしました。

 

その後の活動

ワタクシの中学は社会奉仕活動に力を入れた学校でした。そこで、この年の夏休みには、仮設住宅で過ごすご老人を訪ねて元気を出してもらおう、ということを行いました。(当時仮設住宅での老人の孤独死が問題になってました。)

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